りゅうふぉん日記2006

 INDEX  
   
新年好!2006 連続小説(1) 私と父親―今は病気にしている父の思い出
連続小説(2) 私と父親―父と二胡と私の事 連続小説(3) 私と父親―――4人5脚 父と母とお婆様と私
私の着物記念日 チャイナドレスのサプライズ 
うどんと大漁盛りを訪ねる旅  

 

 
讃岐うどんと大漁盛りを訪ねる旅 10月9日(月) 高松 晴れ

 高松にはたぶん4度目でしょう。凄く親しい感じがします。

興願寺の住職の地下さんの暖かい招待されたことでもありますし、コンサートに来た観客の中には私の演奏を

聞くのは3度目と言われた方もいるわけです。


朝9:20高松空港に到着。

車で高松空港から市内に行く途中に、山頂がまっすぐになっている山・・・・屋島を見て前回に来たことを思い

出しました。高松市にある興願寺の石蒜コンサートは私として3度目です。



一番初めのコンサートは6年以上前のことでした。

コンサートのトークの中で「私はまた帰ってきましたよ」と言ったときに凄い拍手をもらいました。



 今回のコンサートは5名の女性奏者による勝負コンサートとも言えます。(4名の中国人奏者と1名の日本人

奏者の演奏でした。)

 リハーサルの後に興願寺の住職である地下さんに連れてもらって、車で15分くらい距離がある「源来」と云う

うどん屋さんへお昼食事に行きました。

そのうどんを食べた後に住職はどうしてもそのうどん屋に連れて行くわけがわかりました。

小さい店ですがその場で一人ずつのお客さんにうどんを打っています。

そしてその混みことは普通ではないと思います。うどんの美味しさはなんとも言えません。

皆さんはもし高松に行く機会があればその「源来」うどん屋さんに是非行ってみて下さい。おすすめです。

でも店に入ってからまた待たされる時間が長いことに心の準備をしていったほうがいいと思います。



二回公演って本当に疲れますね。

コンサートの申し込みが多くて、一回公演は会場に全部のお客さんが入れませんので二回公演になりました。

当日の会場にお客さんは本当にいっぱいいっぱいでした。

凄く熱い拍手は本当に胸の中に響いて、会場の観客と一体になってとても楽しいコンサートができました。

コンサートを終わって、興願寺の住職地下さんは料理人にお寺まで来てもらって、その場で天ぷらやいろいろな

料理を少しずつ料理しながら出してくれました。凄く新鮮で美味しい料理を頂きました。

贅沢な打ち上げパーティは12時まででしたが、お腹はパンパンとなってしまいました。
 
楽しい旅、楽しい演奏でした。


ふんとにでかい大漁盛りですわ!



チャイナドレスのサプライズ 9月29日(金) 晴れ


 パソコンが壊れて以来結構長い間パソコンがない生活でしましたが本当に不便でした。

新しいパソコンを買い、そして設定までするのは教室の生徒Uさんのお陰でした。

忙しい仕事時間の以外に時間を作ってくれていろいろとやってくれました。



 機械にかなり弱い私にとしては、パソコンをやるのも決して無理だと思いますが、仕事の関係でやらなければ

いけない訳でして、しょうがありません。

人に頼らなければできないことを無理やりするのは、本当にあまり好きではないですが・・・。

本当に悲しいです。気持ちは少し落ち込んでいます。


 
 今週は岩手県水沢地域の学校音楽鑑賞会でN饗団友オーケストラの皆さんと再会しました。

とても楽しい時間をご一緒過ごしていました。オケの皆さんと親しくなって友達のような話たり、夜になって一緒

に食事もしました。そしてとても素晴らしいクラシック音楽の演奏を毎日贅沢くらいに聞きながら、ご一緒に演奏

をさせて頂きました。




 今日は今回学校公演最後のステージに出来事がありました。

私の演奏の一曲目の途中に突然チャインナドレスの襟のボタンが外れてしまいました。その瞬間に体が固まっ

てしまって、できるだけ体が動かないように一生懸命動きを抑えてやっと一曲を終わりました。

終わったところで手ですぐに襟のところに押さえてお辞儀をした後に、体をオケの方向に向かって襟のボタンを

できるだけのスピードで直しました。

オケの皆さんは私にニコッと笑ってくれてその笑顔はかなりの励みとなりました。襟を直している間に、指揮の

田久保さんは一生懸命いろんな話を学生にさせてカバーしてくれました。

演奏中には時々いろんなハプニングが起きますが、奏者たちは皆一緒に助け合いながら乗り越えるものは

とても素敵なことだと思います。

音楽演奏を通して人と人の間の素敵な関係はいろんなことでいつも感動しています。


 


私の着物記念日  6月24日 晴れ


 岩手の前沢に2泊3日で行ってきました。完全にプライベートのお出かけです。

それは仏前結婚式に参加する事です。初めて着物での結婚式に参加することを決めてから、ずっとその日が

来るのを待っていたのです。


一ヶ月前に東京で着物を借りる店に着物を選びに行きました。沢山ある素敵な着物を見て分からなくなり、

7〜8着を試着し、益々分からなくなってしまいました。



 昨日は結婚式です。朝から起きて化粧して着物の手伝い方をお呼びして友達の家(岩手)で着物を着ました。

「先に食事してください、着物を着たら食べられなくなるかも」、「綺麗にする為に今日は我慢してくださいね」と

手伝い方がいろいろと指示しました。沢山の紐やタオルを使って、裏から外までは三重の服を着られました。

あっ、そうだ一つ忘れた。着物用のブラジャーも着けていました。

最後は長〜い帯に巻き込まれてやっと終わりました。



 着物は「腰が大変」「草履を履くのも大変」などなどいろいろ話を聞き、疑問を持ちながら着ましたが、仏前

結婚式と夜の披露宴まで、着物姿で丸一日を過ごしましたが、「腰の問題」「草履の問題」などなど全然感じま

せんでした。

いつもはチャイナドレスを着るので、体のラインが丸見えのために、姿勢を自分でずっと気をつかわなければ

いけませんので、腰や背中が大変疲れるし、ハイヒールを履きますので足も疲れます。

着物の場合は腰を帯に支えられ、姿勢は自然にできてとても楽でした。

草履も全然抵抗なし軽い軽い楽しんで歩きました。走ったりもしましたよ。



とにかく私には着物が合うのだ。嬉しかった。なにもかも新鮮で楽しかったです。

着物を着て私の気持ちは完全日本人になりました。記念すべき一日、一生も忘れない一日でした。



私の着物の日。

       


連続小説(3)  2006/3/25

私と父親―――4人5脚 父、母、お婆様と私

<第3楽章>

私の7歳頃に大きな出来事がありました。

文化大革命の始め頃でした。まず父が
*「牛」として*「牛棚」に入れられ6ヶ月くらい家に戻られませんでした。

その時期は「幹部下放」ということがありまして、文化人や公務員たちは幹部と云うもので農村に労働させる

文化大革命の時期の国の政策であります。農村にいる年数の限りがありません。そのまま一生で農村にして

しまうことをその時の人たちが思いました。

「牛棚」からやっと出た父はその後で母と一緒に汽車に十数時間、そしてバスに乗り換えて十数時間の農村に

行かされてしまいまして、私はお婆様のところに預けられる事となりました。


父がいない間に何故かわかりませんが二胡のことを良く思い出しました。まだ文字を沢山書けない私は

音(中国語の手紙のローマ字)で手紙を書いて農村にいる父へ送りました。二胡をもう一度やりたいと書いて

いました。手紙を出してどのくらい時間を経つのかが覚えていませんが、突然ある日に父が一人で農村から

家に戻ってきて、その翌日から二胡を教えてくれました。その後の四年間は父が農村とお婆様家の間に頻繁に

行ったり来たりして二胡を教えました。

父は相変わらずに厳しいでした。最低4時間以上の練習を厳守しなければいけないと要求されました。


父がいない時にお婆様は父の代わりに役目を務めました。お婆様はやはり父のお母さんだ。

厳しいところはそっくりで父より以上でした。きっとお婆様の育ち方で今の父になったでしょう。

家に手伝いさんがいますのでお婆様は家事などのことをやらなくて済みます。そのわけで私の面倒を見る、

教育することだけを集中できました。数年間の間に学校の以外ではお婆様とずっと一緒でした。部屋も隣にされ

て、私の部屋とお婆様の部屋の間にドアがありますので管理するのはかなり便利だそうです。

二胡を練習する時にお婆様はずっと一歩も外さない隣に座って時計を見て監督していました。二胡のことが

さっぱりわかりませんが、練習時間だけを確かめる事ができるわけで父が託した事だとお婆様は父が帰るまで

尽くして守ってやりました。かわいそうお婆様でした。

 8歳の頃の私とお婆様。

お婆様は7年後の私が福建芸術学校(芸術専門学校)に入った三年目に病気でなくなりました。

私が福建芸術学校に入り、農村から福州大学に戻った父が毎日の夕方ごろから大学の仕事の帰りに必ず

私がいる福建芸術学校へ来ます。

福建芸術学校に私の母もピアノの先生として勤めていました。とても良い都合でしょうが、私の練習室で私を

指導して、夜10:00に学校で練習していた母も(母も私に合わせて毎晩は学校でピアノを練習する事になった)

一緒に家へ帰ります。学校は合宿制度ですので、土、日曜日及び学校の冬休み、夏休みは私が家に帰る

以外に毎晩でした。仕事が間に合わない時に論文を私の練習室で書く事もありました。

お様婆様がなくなった日の夜も父が相変わらず私の練習室にいました。

お手伝いさんが練習室に尋ねてきてお婆様の様子を報告しました。

三人が揃って家へ戻った時にはお婆様がもう息を閉じていました。お婆様の顔を撫でなら涙を静かに流して

いる父はとてもとても寂しくて、父の涙はただその一回だけ見ました。

                                                           続く・・・

 2005の5月に自宅で撮影。劉鋒さんとお父様。


【 
劉鋒さんによる注記 

*「牛」:文化大革命時の専用語。文化人や公務員及び共産党の幹部などは革命に対して問題がありそう人。

*「牛棚」:
「牛」と判断される人たちを集って入れる部屋。「牛」たちは「牛棚」に入れられてから革命を教育し、問題がなくなるまでその部屋から出られません。生活は完全缶詰になり。外部の情報を一切に切られて、自分だけの問題を深く反省すること。「牛棚」で教育されて反省しても問題が残ると判断される人の場合は監獄に投げ入れられる。



※文化大革命に関してはたくさんの出版物が有ります。当時の情報統制やその後の隠蔽などがあり、あまり正しい事はわかりません。ただ近年読んだ中国関連本では、やや週刊誌的ではありますが「マオ」がリアルな感じを私に与えました。当時のあまり公開されてない写真が豊富にありますし、私が北京でやっていたODA関連のスーチンリン女史問題や国民党や共産党の内幕めいた話も多く、真偽は別にして一読されることを進めます。(UE)


「マオ 誰も知らなかった毛沢東 上下巻」  ユン・チアン著 ジョン・ハリデイ著  土屋 京子訳
税込価格 : \2,310 出版 : 講談社 サイズ : 四六判   SBN : 4-06-206846-X 発行年月 : 2005.11


連続小説(2)  2006/2/18

私と父親―――父と二胡と私の事。


<第二楽章>

6歳の時、父がいるところの小学校に入るため、生まれて初めて福州で両親と一緒に暮らす事になりました。

実は父がもう一つ趣味を持っています。それは仕事の以外に父の人生の中で夢中になっていることです。

―――二胡を毎日のように弾いていました。

仕事がどんなに忙しくても二胡を弾く事は絶対に忘れませんでした。

「二泉映月」、「良宵」、「光明行」、「懐郷行」など、私の耳にタコをできちゃうくらい二胡の音を毎晩に流れてい

まっした。 私は「二胡が大嫌いです」と母に言いました。


6歳のある日、父がこれから二胡を習い始めなさいと言い飛び出しまして、まさかだと思いました。

でも父が言う事に反抗をできませんでした。

普通は二胡の専門の先生のところに習いに行くのに、父が自分で教えることを決めて厳しい教育をし始めまし

た。



毎日、最低限度2時間の二胡の練習は6歳の私の生活の中に欠かせないものになりました。

午前中、学校から帰ってお昼食べた後、夕方学校から帰って晩飯の後に学校の宿題をやる以外の時間は二胡

の練習に「完全束縛」されました。父の声で音程が「高い〜、低い〜」、「手を速く動かせ」、「十六音符を平均的

に」、「弓を使え」等等いろいろと注意させることをずっと繰り返しました。その父は厳しくて怖かったです。



父がとても「好客」(中国語。客が家に来ることが大好き)な人で、家にはお客さんが頻繁に来ます。

ただお客さんが来ても、どんなことがあっても私の二胡の練習は絶対に不動でした。

日曜日によく両親に連れられて父の親友の家に行きました。毎回、父が必ず二胡を持って行きます。

父たちがいる隣の部屋で私が練習します。

時々父が部屋に入って来て「先はこれ・・・、それ・・・が要注意」などと言います。

友達と話の間に、耳を傾けてずっと私の練習を聞いている事だと思います。父の親友の家族の人たちもその事

に慣れて、いつも私の練習部屋を用意してくれました。

二胡を始めてから私の遊び時間が完全になくなりました。

遊んだら罪のようなことに思わせることを父が用心して、遊びは無駄な、贅沢な時間使いといろんな面で

教育していました。

私の体の毎一部分、特に手を二胡のために大事にすることも普段の生活の中で教え込みました。



ある日、私は家にある石の階段のところに転びました。花崗岩(
火山岩の種類で硬い石です)の地面は

非常に硬いですので転ぶと骨折などを起こしやすいし、頭が打つと大変な事になります。

その時の父は「手はどう?手が大丈夫なら。」とほかの事を何も聞かずに、手だけのことを私に叫びました。

そのことは今でも私に影響を与えています。手は命より大事なものだ、何よりも二胡だということです。



二胡を習い一年経て私としては地獄のような毎日でした。

「もう二胡をやりたくありません」と7歳になった私がやっと勇気を出してある日に言いました。

幼い頃より「父母の言うことに絶対に反対するな」、「言われたとおりにする」という教育をされた私は、普段の

時にとてもいい子で大人の指示の通りにしかしない子でした。

父は私のその言葉に対して、どう受け止めて、どう承知したのかをあまり覚えていませんが、とにかく生まれて

以来の始めての反論で二胡を辞めました。


その後私がもう一度二胡を始める日までの間の父の悲しい顔を今でも覚えています。

その期間、父は私の二胡のことに関する事を一切に口に出しませんでした。
  
続く・・・



連続小説(1)  2006/2/1

私と父親―――今は病気にしている父の思い出 


<第1楽章>

私は父親の顔と似ていることをよく言われています。そのことによって父がとても自慢にしていました。

父としてただ一人の娘が自分と似ている事を気にいっているのでしょうね。

でも私はいつも顔が父と似ている事に残念がっています。その理由は母のほうは綺麗ですので・・・。



数年前、私を日本へ見送るため北京へ二人で一緒に行きました。

その頃の中国のホテルは、男と女が一緒に一つ部屋を泊まることとしたら結婚証明書、あるいは親関係なら

籍謄本などの証明が要る時代です。私と父がホテルで一つ部屋に泊まりたくて、ホテルの従業員に伺ったら、

従業員は私と父の顔をちょっとの間に見つめて、そして証明書を見せるなどの事を全然言わずに部屋の鍵を

渡してくれました。きっと二人の顔は証明書みたいなものになっているでしょう。



去年9月頃、突然に中国から電話がありまして、父が脳出血で倒れて入院しました。

バイクを乗ったりしてとても元気だった父が病気なんか信じませんでした。それ以来は今まで5ヶ月近く病院で

治療し続けています。その間に二回ほど帰りましたが、娘を見てもわかったりわからなかったりしています。

私の父は元福州大学(福建省福州市にある学生3万人くらいの理工科大学です)の先生でした。

定年した後でも福州大学の主催で定年した先生たちの旅行にいつも誘われて喜んで出かけていました。

内向な性格ですが学校で結構人気者です。

書道が得意ですので、学校は何がある時によく父に字を書いてもらいました。

父は囲棋がとても好きですがあまり上手と言えません。

でもいろんな囲棋のプロ選手と知って家まで呼んで来ていました。



私は小学校入る前まで母とずっと上海に住んでいました。

一年の中に数回上海から福州へ父に会いに行きます。その時に父がよく肩に私を乗せて山に行ったり川に

遊びに行ったりして、川の中で泳ぎ事も教えてくれました。

優しい気持ちを持っていてそして厳しいお父さんです。


       続く・・・


新年好!2006

2006年1月1日 

劉鋒さんより新年のお祝いメッセージです!!